嘘日記3:みみずが水を飲んでいる。
朝から雨だった。
散歩にでも行こうかなと思ったけれど雨がはらはらと降りやまないので1日家にいることにした。
みみずが水を飲んでいる。
すっかり寒くなってきたのを水道水で知る。
昨日、また職場のみんなとお酒を飲んで塩辛いものばかり食べたせいか、体重がめっちゃ増えていてびっくりした。先週から比べたら3キロ以上増えている。
できるだけ長くお風呂に入って、たくさん眠ろうと思う。
嘘日記2:私はこんなところにいる人間じゃない
今日は早く帰ろうかなと思ったけれど、同僚のみんなとなんとなく酒を飲む流れになってハイボールをちびちび飲んだ。
3杯目くらいで酔いが回ってきたころ、オフィスの窓から視線を感じたので振り返ると大きななめくじが窓の外からこちらをじっと見つめていた。
「見つめていた」と書いたけれどなめくじには目がない。けれどおそらくはこっちを認識しているのだろうという雰囲気がする。オフィスは4階にあるのでわざわざぬめぬめと壁を登ってきたのだろうか。
雨が降ったり止んだりする日だった。同僚たちはなめくじに気づかないで、仕事の悩みについて語っていた。
「私はこんなところにいる人間じゃない」と女の同僚の一人が言った。「私はさっさとこのプロジェクトで結果を出して、その成果でもっといい企業に転職するの」
僕は彼女の発言を咎めるべきかと思ったけれど、彼女がいないとこのプロジェクトは回らないため、何を言えばいいのかわからなかった。彼女自身も、そういう立場にいることを自覚しているのだ。
「あーあ、退屈。この意味のない時間がスキップできればいいのに」と彼女は言う。僕は何も言わないでちびちびとハイボールを飲み続けた。
なめくじは僕たちのことを憎んでいるんだ、と僕は気づく。
嘘日記1:恋愛っていうのは初回限定の100連ガチャみたいなものだよ
昨日の夜からどうしても野菜が食べたくなって、今日は桜新町のシズラーまで歩いて行った。
夏が終わって涼しい風が吹いていて、久しぶりに長く歩いたけれどあまり汗も出なかった。そういえば自分は歩くのが好きだったなぁと思い出した。
途中で、軽トラックに旗を立てて行商をしている人がいた。果物の販売かと思って近づくと、トラックの荷台には綺麗な瓶に入った液体がたくさん並んでおり、旗には「エーテル」と書かれていた。「うわ〜いやだな〜」と思ってそのまま通り過ぎようとすると、麦わら帽子をかぶった太ったおばあさんが「あにきぃ〜」と声をかけてきた。とうぜんそういう謎の距離感にも「うわ〜いやだな〜」と思ったので少し早足で通り過ぎた。
2時前にシズラーに着いたのだけれど、祝日だったので行列ができていた。順番待ちの名簿に名前を書いて入り口のベンチに座っていると、隣にいた若いカップルの男が「恋愛っていうのは初回限定の100連ガチャみたいなものだよ」と女の子に話していた。
「結局、ながい人生にとって恋愛ってのは夫婦になった後の定着性を高めるためのボーナスタイムみたいなものでしかないわけ。一時期はうわぁ楽しいなぁ嬉しいなぁって感じるんだけど、その高揚感で生涯のすべての難局を乗り切れるわけじゃない。最初に引いたSSRのキャラも数ヶ月後には平均的な位置付けのキャラクターに収まっていくんだよ」隣の女の子はふーん、みたいな感じで、けれどにこにこして男の子の話を聞いていた。女の子はびっくりするくらい綺麗な顔立ちで、逆に男の方はにきびづらで「poem❤︎」というロゴがたくさん入っているシャツを着ていてなんだか不釣り合いだなぁ、と僕は勝手に思っていた。
「でもさーあ」と女の子はかぶっていた黒いキャップをとって、髪をかきあげた。「その100連がなかったら誰もそのゲームを始めないでしょお」女の子はいたずらっぽい表情をして、男の子のほっぺに右手を伸ばして頰をぷにぷにと触った。
「だから恋愛が人生の全てで、実はその後の全部がまるっきり、オマケなのかもしれないじゃない?」
--
シズラーの野菜はとても多すぎて僕は少し食べすぎてしまった。サラダバーだけで十分なのに調子に乗ってハンバーグまで頼んでしまったから(サラダバーだけの価格と500円くらいしか違わないのだ)お腹がぱんぱんだった。おいしいコーヒーを飲み干してからまた歩いて家に帰ったのだけれど、その道すがらで変な建物をみつけた。
僕は恐ろしくなって走って逃げ出してしまったから、その建物がなんなのかいまだにわからないのだけれど、この建物を夢で見てしまわないように気をつけようと思った。
象
私が今からお話しすることを、貴方はもしかしたら信じないかもしれません。
事実、私は外から鍵のかかった病院で薬を待つだけの生活をしていた訳ですし、桃も自分で剥いて食べられません。
ですが、私にはちゃんと一人分の人権がありますから、たくさんのニンゲンが力任せに私を此処へ閉じ込めて、私が考えたり、思ったりすることを制限するようなことは本当は許されないことなのです。
貴方は私の言うことを信じてくれるでしょうか。
其れは私が今日三回目の薬を飲んだ時の事でした。
私は此処へ初めて来たときに私の担当になった医者を一度だけ見たことがあったのですが、一目見ただけで私はその医者が「よく嘘を吐くニンゲン」であることがわかっていました。
だから私はほとんど処方された薬を飲みませんでした。よく嘘を吐くニンゲンが考えた薬を飲むことは危険だと思ったからです。
けれど、付添いの看護婦は必ず私が薬をちゃんと飲んだかどうか舌の裏側までくまなく光を当てて調べるのです。
その為に私は薬を飲んだ後で、便所でできるだけ声を殺して薬をまるっきり吐き出してしまう様にしていました。私は其れが得意でした。
私は今晩も、何時もと同じ様に便所で薬を三錠吐き出して、洗面台でその口を漱いでいました。
その時です。
清潔な手拭で顔を拭おうと顔を上げて気づいたのですが、鏡の中に映る私の後ろに、象が居るのです。
私は最初、巡回に来た看護婦が立っていたかと思ったのです。でもやっぱり其れは象でした。
象と言っても其れは、動物園やテレビでよく見る、巨大な獣の様子ではありませんでした。ちょうど私と同じ位の背丈をした、ヒトの形をした象なのです。
私は驚いて脚が動きませんでした。一息に逃げようかという考えが過ぎったのですが、恐ろしさで足の裏がひたっと床に根を張ったように動かなくなってしまって、反対にまじまじとその象を見てしまうことになったのです。
その象は優しい目をしていました。服なんかは身に着けていないで、皮膚にはあの象らしい灰色の厚い皮からまばらに産毛をはやしています。其れだけであれば私は彼を、「象」ではなくて「象のようなニンゲン」といったかもしれません。
私が彼を「象」だというのはやはり、彼があの大きな耳と長い鼻を持っていたからでした。
象の顔の横には新聞紙を広げたように大きな耳と、顔の真ん中には腰の辺りほどまで垂れた長い鼻があったからです。
私は振り返って自分の後ろを探してみるのですが、やはり象は鏡の中だけに立っていました。棒立ちになって、じっと、皿に溜めた墨汁のようなふたつの目で此方を見詰めているのです。
ふいに、鳥の声が聞こえてきました。があ、があと重い木製の扉を開け閉めするような鳥の声でした。
私はおかしいと思いました。此処は病院の地下にあるはずの階で、鳥の声が聞こえてくるはずなんて無いのです。耳を澄ませてみると、其の声は鏡の中から聞こえてくる様でした。
私はもういちど鏡の中をのぞきました。鏡の中、象の脇あたりからのぞける奥の風景は、便所ではありませんでした。其処は森でした。しとしと細い雨の降る美しい森でした。
私は思わず鏡へ手を伸ばしました。気が付くと、其れはもう光を返す鏡ではなく、向こうの空間に広がる窓になっていました。
象は突然、私に向かって手招きを始めました。
象は私の心をまるっきり知っているのかと私は思いました。
なぜなら私はずっとこの病院に閉じ込められて、夜毎夜毎に外の世界を渇望していたからです。何度も何度も見張りの目を盗んで表へ出ようと思ったのですが、そのたびに見張りに見つかっては想いを阻まれていました。
私は象の眼を見つめました。私は直感で象が悪い存在ではないと感じました。私を外へ連れ出す為に、私を救おうとして、この窓の向こうから熱心に私を呼んでいるんだと思ったのです。
私はスリッパを脱いで洗面台に脚を掛けると、鏡の窓を潜って其方の世界へ入っていきました。
其処は誠に完全な森でした。濡れた木の葉と樹皮がにおい、低くには草とツタが茂って密やかに呼吸しています。見上げた空では、重い雲が雫をさらさらと零していました。私は象の隣を過ぎてそのまま森へ駆けてゆきました。
ですが、数歩進んだ瞬間に私は転んで、勢いがついていた為に顔から地面に倒れこんでしまいました。顔や脚、掌が、まるで紙をちぎったみたいに傷を負って血が出ていました。
その森は完全に奇怪な森でもありました。しだ草は鎖のように硬く棘だらけで意地悪に私を絡めとろうとするし、樹木は枝をまるで檻のように絡み合って伸ばし、奥へはナイフでも無ければ殆ど進めない有様であるのです。
また鳥の声が聞こえました。があ、があという鳴き声はさっきの平穏なものとは違って、獲物が近くにいることを仲間に伝えるような、突撃を始める尖兵が奏でる、けたたましい戦場のラッパのような響きでした。
私は一気に怖くなって、窓へ戻ろうと思いました。
手脚をずたずたに切りながら構わずに立ち上がると、歩いて窓のほうへ行きました。
さっきまでの場所にもう、象は居ませんでした。象は少し前まで私が立っていたところ、便所のある側に立って、あの目でこちらをじっと見つめているのです。
私はそんなことに構わず窓を潜ろうと思いました。
その時です。窓の前で象が、私と全く左右対称に動きはじめたのです。私が右手を上げたように象は左手を上げ、右膝を上げれば左膝を上げ、私が頭をもたげて窓を潜ろうとすると、象もこっちへ向かって窓を潜ろうとしてくるのです。
当然私は象の御影石みたいに硬い額にぶつかって、たまらずに後ろへまたひっくり返ってしまいました。下にある草が私の耳の後ろを深く切り裂きました。象も其れに会わせる様に便所で私の転んだ形態を模しています。
私はまた立ち上がって窓に手をかけますが、左手を上げれば象は右手を、右へ避けようとすれば象は同じ方に体をもたげてきます。象の体は馬鹿みたいに重くて、押し切ることもままなりません。とうとう私は息が続かなくなって、窓の前に立ち尽くしてしまいました。
雨はだんだん強く、重くなってきました。森は夜になろうとしています。
便所から象は、まるで二つの黒い満月のような眼で、ただ私をじっと、じっと其処から見つめるばかりなのでした。
もしも童話「おおきなカブ」がITのデスマプロジェクトだったら【完全版】
ホワイトボード前に置かれたパイプ椅子にイヌ、ネコ、ネズミが一触即発の雰囲気で座っている。
扉が開き、慌てた様子の青年が入ってくる。
孫「お疲れ様です、すいませ――」
ネズミ「遅えよッ!!」
ネコ「!!」
ネズミ「……チッ」
孫「あの、本当、すいません。11時からって、皆さんにお約束してたのに……」
イヌ「ま、まぁ。とりあえず、ミーティングの報告をお願いします。もう2時間も押してるんで」
孫「印刷した資料が1部たりなくて。……じゃあ、はい! 僕のは大丈夫なんで、業務委託の皆さんで、どうぞ!」
ネズミ「ッ……!」
孫「はい、では皆さんお手元に資料ありますかね、お疲れ様です!」
ネズミ「……」
孫「えー、先ほど今回の、【大きなカブ引っこ抜きプロジェクト】の遅延に関しまして、業務委託の皆さんからいただいたご意見も踏まえて、事業責任者であるお爺さんお婆さんと、今後の打ち手について協議してきました」
孫「そこで、えー、結論ですが、カブのロンチ期日は絶対死守したいということで、8名の派遣社員の増員が決まりました!」
ネズミ「は?」
孫「海外からオカメインコが8羽、パスポート関連の手続きが終了次第、このプロジェクトにジョインします!」
イヌ「あ、あの、それって……確認なんですけど、そのオカメインコたち当然、GIT(ぐいっと抜く)操作や大作物収穫の経験はあるんですよね!?」
孫「いえ、実務レベルでは無いそうですが……ただ全員、野菜チップスをついばんだ経験があると聞いています!」
ネズミ「……は?」
孫「ついばんできたのは、レンコン、ニンジン、カボチャ、サツマイモなど、かなり多くの根菜だそうです! そういった経験があるのでこの現場でも――」
ネコ「ちょっと、いいですか!? これって、大きなカブの葉を真横に引っ張って抜くことを目的としたプロジェクトですよね? 根菜を食べた経験は全く関係ないですし、そもそも鳥類の方では私たちの引っ張り方と全く噛み合いませんよ!?」
孫「まぁ、それはそれで……」
イヌ「あの! 孫さん、僕らの報告書ちゃんと読んでました!? 人員を増やしたところで意味がないどころか、全くの逆効果ですよ!?」
ネコ「GIT(ぐいっと抜く)操作に慣れないお爺さんやお婆さんが不用意なプッシュプルを繰り返したせいで、コンフリクト解消に無駄な時間を取られたのが遅延の主たる原因って……私、書きましたよね!?」
イヌ「ふたりが現場から離れてやっと作業がまともに進み始めたところだったのに……! 孫さん、今からでも増員を中止できないんですか!?」
孫「それは、CTO(超とんでもないお偉いさん)であるお婆さんが判断したことなので、私ではどうにも……」
ネコ「そんな!」
孫「CEO(超えげつないお偉いさん)であるお爺さんもすでにアグリーなんですよね。ですのでここからは、増員を前提とした話し合いを――」
孫「!!」
ネズミ「お前ら上の奴らの無能な指示で、俺はもう何週間も嫁や子供たちに会えてねえんだよ! どうしてくれんだよ、アアッ!?」
孫「そ、それは、本当に申し訳ないと思って……」
ネズミ「もうあんたの心の込もってない謝罪は聞き飽きたんだよッ! 何度も何度も気分で方針変更してきてよぉ! 一度たりとも、上手くコトが運んだ試しがねえじゃねえか!?」
ネコ「……」
ネズミ「イヌもネコも覚えてるだろ!? 爺さんがウォーターホール方式(水をかけてから引っ張る)でいきたいって言ってたのに、しばらくしたら『必要な水量の見通しが立たず、そもそも濡らしても抜きやすくならないと判明した』とか言い出したよな!?」
孫「それは……」
ネズミ「そしたら今度はアジャイル方式とか言いだして、通りすがりの奴らつかまえて1人ずつ引っ張っらせては感想聞いてたよな!? 一体ありゃぁどういう了見だ!? 全員で引っ張っても無理なのにちょっとずつ引っ張って抜けるはずがねぇだろ! アホか!?」
孫「あれは……」
イヌ「そもそもあの時、プロジェクトの誰ひとりとしてアジャイルを正しく理解してなかったですからね……」
ネズミ「そんで挙げ句の果てにティール組織でいくとか言って、プロジェクト完全に停止させて、うすら寒い理念研修ばっかり増やしてよぉっ!? そのくせ納期は死守しろ死守しろって、頭イかれてんのかよ!?」
ネコ「ネズミさん、と、とにかくいちど落ち着いてください……!」
孫「……確かに、方針の変更は何度もありました、ですがすべてお爺さん、お婆さんと時間をかけて議論した上で、学術的にもエビデンスがある方式への、論理的なピボットで――」
孫「り、理解できないなら勉強していただかないと……私は大学院で専門的にデザイン思考と組織論、統計学を学び、その知識を前提としてお爺さんとお婆さんと協議した上で……」
ネズミ「お前みたいなのが一番タチが悪いんだよ!! 上司の無茶振りを理論武装するだけのバカが傀儡になって中間管理やってるから、いつまで経っても末端を使いつぶすデスマがなくならねぇ!!」
孫「そ、そんな……!」
ネズミ「お前のゴールは現場のご機嫌とってさっさとカブ抜いて、その成果を持って別プロジェクトか他社へ異動することだもんな!? 本心が普段の言動から透けて見えてんだよ!! お前、そんなんで本気でこのプロジェクト成功させる気あるのかよ!?」
孫「そんなつもりは、毛頭……!」
ネズミ「あーあ。やってらんね。もうこんなプロジェクト今日で終わりだ。これ以上の契約更新なんかするかよ! な、イヌとネコもそうだろ!?」
イヌ「……勝手に、僕の本音を知ってるかのようなこと、言わないでもらえますか?」
ネズミ「え」
ネコ「孫さん、オカメインコさんたちが来るまでに座席表が必要ですよね? 私が作っておきますね!」
孫「……え。いいんですか?」
イヌ「そういえば孫さん、さっきいただいたこの資料、すごく綺麗にまとまってて素晴らしいですね。後半からほぼ空白なのも、余白を活かした高度なデザイン性を感じます」
孫「え、意図してなかったけど、ありがとうございます! 実は学生の頃は、デザイナーのスペシャリスト志望で……」
孫「……あ! すみませんそういえば!」
孫「本当にすいません……実はこのあと、合コンがありまして……」
ネコ「まぁまぁ、この話の続きは後日、ってことで!」
イヌ「そうですね、次のミーティング、カレンダー入れときますね!」
ネズミ「お、俺の話を……」
孫「それじゃ、本気でやばいんでそろそろ失礼します! ……あ、ネズミさん、契約更新は必要ないということなので、デスクの清掃だけよろしくお願いします〜、お疲れ様です!」
孫、あわてて部屋を去る。
ネズミ「……お前ら、こんだけひどい目に合わされても、組織側につく気なのかよ!?」
イヌ「何か勘違いしているみたいだけど……最初から僕は、この組織や進め方に一切、不満はありませんよ。変な人員増加で気疲れが増えるのは、できれば避けたいところでしたが」
ネコ「ええ、私も」
ネズミ「は……? こんなグダグダの遅延プロジェクトに、不満がないわけないだろ!?」
イヌ「いや、大規模な遅延プロジェクトだからこそ、ですよ。このプロジェクトのロンチが伸びれば伸びるほど、僕らは飯が食える期間が約束されて、面倒な転職活動をしなくていいんだから」
ネズミ「!!」
ネコ「あらゆるトレンドが2、3年単位でガラッと様変わりする、雇用形態も入り乱れてるこんな現場で、マネジメントや進行管理、正当な評価なんて不可能だって、この業界に数年いる頭のいい人なら誰でもわかってるんですよ。だったら、それを利用する思考にならないと」
イヌ「僕は別のスタートアップでも働いてる。ネコさんは個人経営の喫茶店を始める準備中。……ここでの業務は、あくまで飯の種、ライスワークなんです。新人の孫さんが上の都合に踊らされておかしな指示を持ってくるのも織り込み済みで仕事を請けてるんです。……腹立ててるのは、組織の論理を知らない、ネズミさん、あなただけだよ」
ネズミ「! そんな……」
イヌ「……それと、この際だからぜんぶ言わせてもらうけど。正直、ネズミごときの力じゃカブを引っ張っても一ミリたりとも影響がないんだよ。無駄なプッシュとプルを繰り返して、僕やネコさんの尻尾にぶら下がってるだけで」
ネズミ「……そ、それは……」
イヌ「何も言わなかったのは、落ちこぼれがいると僕に批判の矛先が向かないのと、あなたが嫁と子供を食わせるために必死なんだろうって同情してたからです。 ……でも孫さんに噛み付いたら、もう、かばえないかな。僕に得が無さすぎるし」
ネズミ「…………」
ネコ「私も言わせてもらうけど、正直、いまの私にとっての邪魔者は飯の種をくれるお爺さんたちじゃなくて、暴力的な言動を繰り返して職場の雰囲気を悪くしているネズミ、あんたなんだよ。……そもそも、あんたお婆さんに『ドブ臭い』って毛嫌いされてたから、近いうちに切られる話は出てたんだけどね」
ネズミ「……………………」
ネコ「あんた、このプロジェクトには正直、向いてないと思うよ。転職のいい機会だったんじゃない?」
ネズミ「お、俺は、ただ」
イヌ「……ん?」
ネコ「あの巨大なカブ、抜けたとして食用にも、観賞用にもならないらしいです。……むしろ中が腐ってて、処理するのにまた莫大な費用がかかる、って」
ネコ「カブを分けて欲しい人たちが前金を積んで、カブの価格がつり上がってるらしいんです。前金に手をつけてしまったお爺さんは、腐ってるとわかっててもこのプロジェクトを止めるわけにはいかない」
イヌ「……」
ネコ「最近はお爺さんも開き直って、カブを買ってスープにして売れば大金持ちになれるぞって、IR(インチキなレシピ)を配り歩いてるらしいですよ」
イヌ、深く息を吐き、何も書かれていないホワイトボードをじっと見つめる。
イヌ「いつかカブが抜けて処理が決まれば……またネズミにも仕事がまわってくるのかもな」
暗転、幕。
もしも桃太郎一行がITのスタートアップだったら(完全版)
恵比寿駅の喫茶店。イヌ、サル、キジが張り詰めた空気でテーブルに同席している。
喫茶店のドアを開けて、桃太郎が入ってくる。
桃太郎「おつかれーっす」
イヌ、サル、キジ「……っす」
桃太郎「ごめんごめん、遅くなっちゃったわ。いやね、きのう金太郎と浦島太郎と飲みがあってさ」
キジ「え、あの有名な……」
桃太郎「そうそう。お互い名刺交換して。まぁやっぱ視座の高さが違ったわ。特に浦島太郎なんて玉手箱開けた経験者だし。金太郎は店にクマで乗り付けてた。ツキノワグマ」
サル「はー、すごいっすね」
桃太郎「浦島太郎、酔って乙姫に今から店こいよ!ってLINEしてたわ。ま、来なかったんだけど」
イヌ「……」
桃太郎「で、今日は何の話だっけ?」
サル「えーっと、それがっすね……」
桃太郎「来月の、鬼ヶ島ロンチの話?」
キジ「いや……」
イヌ「……俺から話すわ。実は、四人の座組みの件で、もう一回ちゃんと話したくて」
桃太郎「え?座組み? それは前あれだけ四人で話したじゃん?」
イヌ「あの後、また3人で話したんですけど、やっぱりまだちょっと腹落ちしてないって結論になって」
サル・キジ「……」
桃太郎「……あー、そっかそっか。で? 何が問題なの?」
イヌ「結論から言うと、4人のスキルがカニバってて、このままだと鬼ヶ島環境にロンチしたタイミングで事故るな、と」
桃太郎「え? いや、それぞれ全くバックボーンも違う、別領域のスペシャリストだから集まったんじゃん!」
イヌ「もともと、僕が4足歩行、サルが木登り、キジが空からの攻撃の主担当、桃太郎さんが指示って扱いで役割分担してたと思うんですけど」
桃太郎「そうね。誰1人欠けても鬼の討伐は成功しない、って思ってるよ」
イヌ「で、鬼ヶ島は荒れ地で木が生えてない、ってこの前、キジの偵察で判明したじゃないですか。それで、サルの仕事がなくなったと」
桃太郎「いや!だから!それは前に話したじゃん! 直近はサルは引っかき担当になったでしょうが!!それまた話すのかよ!?」
サル「あの時の話し合いの直後は、引っかきに集中しよう、って思えたんですけど、でもよく考えたら引っかきって、イヌでもキジでもできることだなって……」
桃太郎「それは……!!」
サル「最初から、鬼ヶ島に木がないってわかってたら、こんな話にはなってなかったですよね……」
キジ「なんか、ごめんなさい……」
桃太郎「いやいやいや、不確実性のコーンの話ししたよね? 実際に進んでからじゃないと確度の高い情報は出ないんだって」
サル「はい、頭ではわかっていたんですけど、実際に自分にできる仕事がないって状況に直面すると、戸惑ってしまって」
イヌ「……それで、サルから僕たちに相談されて。同じだけきびだんごをもらってるのにポテンシャル発揮できてない自分が許せない、と。それで3人で相談して、サルに指示係をやってみてもらうのはどうかと思って試してみたんです。すると、かなり攻撃の連携がうまくいくことがわかって」
桃太郎「え?でも指示するのは俺の担当だよね? またカニバってるじゃん」
イヌ「それが正直、サルは桃太郎さんより指示が的確なんです。桃太郎さんの指示は「倒せ」とか「やっつけろ」とか抽象的なのが多いんで現場側でいったん分解しないといけないんですけど、サルは「悪い鬼をこらしめるために、痛みを与えたい。キジさん、後方に回り込んで、鬼の後頭部をくちばしでつついてもらっていいですか?」みたいに、目的と手段を明確に伝えてくれるから、攻撃がやりやすいんです」
桃太郎「……!!」
イヌ「なので、今後はサルが指示係になって、イヌ、キジ、桃太郎さんで攻撃をする座組みにするのはどうかと――」
桃太郎「いや、それはできないな」
サル「……」
桃太郎「3人は攻撃の連携効率、ただそこだけを考えてサルを指示係にすべき、って言ってるけど、指示において考慮しないといけないのはそれだけじゃないからね。3人の体力配分とか、有利な場面でも万が一のために常に退路を確保したりとか、きびだんごの残数とかも含めた上で攻撃手段に落とし込んでるの。確かに抽象的な指示は多かったかもしれないけど、それはリーダーとして扱わないといけない情報量があまりに多いから、どうしても抽象的なアウトプットにならざるを得ないわけ。いや、できるよ?時間さえもらえればサル以上に的確に言語化された指示を出せる。なんなら事前に紙に書いて配ることだってできるよ。ただそんなことをしてたら全員鬼の金棒で頭蓋骨割られて死んじゃうでしょ」
イヌ「でも、権限を渡さなかったら属人化は解消されないですよね?」
桃太郎「それは……まぁとにかく、すぐに決裁を全て渡すってのはできない。サルが指示をしてもいいけど、いったんイヌとキジへの指示は俺に決裁をもらってからにして」
サル「えっ……攻撃のたびに、桃太郎さんに許可をもらうんですか?」
桃太郎「ま、そういうことだね」
キジ「それはさすがに、現実的じゃないのでは……」
桃太郎「じゃあ指示係は今後も俺がいいっていう結論だね。他に議題ある?」
イヌ・サル・キジ「……」
桃太郎「なければ、お疲れ様でーす」
イヌ「待てよ。桃太郎さん、いつもそうやって自分勝手な結論に持っていこうとしますよね」
桃太郎「は!? 話聞いてなかったわけ!? 話し合って結論が出たんでしょ!!」
イヌ「もう、ついていけないすわ。言おうか黙ってましたけど、僕、花さか爺さんからオファーもらってるんです」
桃太郎「は……? 俺を裏切って、あんなホラ吹きジジイについていくつもり?」
イヌ「花咲か爺さんは、僕となら大輪の花を咲かせられるって、夢を語ってくれたんです」
サル「……そんな、もうすぐロンチって時に……!」
キジ「そうよ! イヌがいなかったら、私たち、全滅しちゃうわよ!私はイヌやサルと違って転職先も少ないのよ!?」
桃太郎「ちょっと、落ち着こう、な、な? 感情的になってたら思考の質が落ちて、いい結論が……」
イヌ「そういう上から目線がイラつくんだよ!!もうこうなったら全部言わせてもらうけどな、あんたはVC(ばあちゃん)からきびだんご渡されたってだけで、俺たちのこと見下してんだよ!!」
桃太郎「……!!」
キジ「イヌ、それは言っちゃ……」
イヌ「キジ、さっきからお前はどっち派なんだよ! お前も影では言ってただろ、自分からきびだんごくれたら家来になるなんて、言わなきゃよかったって!!」
サル「イヌ、落ち着けよ!」
イヌ「サル、お前もいい奴ぶんなよな!お前最近、カニの家の近くに柿の木が生えたって話しかしてないじゃないか!!もうこのプロジェクトに、興味ないんだろ?」
サル「それは……」
イヌ「いい儲け話だよな、カニじゃ木には登れないもんな? せいぜい渋柿じゃないことを祈るんだな!」
桃太郎「……」
イヌ「桃太郎さんよ、黙ってないでなんとか言ったらどうなんだよ! えぇ!?」
桃太郎「……これは、VC(ばあちゃん)とGC(じいちゃん)にしか話してない、完全クローズドの話なんだけど」
イヌ「……?」
桃太郎「実は俺、昔、川でVC(ばあちゃん)に拾われたっていう原体験があるんだ」
キジ「川で、拾われた……!?」
サル「桃太郎さん、それって……」
桃太郎「ああ、俺は本当は孤児なんだ。それもただ捨てられたわけじゃなく、巨大な桃の中に入れられて川に捨てられてたらしい」
イヌ「……」
桃太郎「その時の記憶はほとんどないんだけど、ただ狭くて、暗くて、甘臭かったことだけは覚えてる。偶然川に洗濯に来てたVC(ばあちゃん)に拾われなかったら、俺は死んでた。そういう原体験があるから、俺は鬼を退治して、平和な世の中をつくって、俺みたいな境遇の子が出ないようにしたいって思ってるんだ」
イヌ・サル・キジ「……」
桃太郎「どうしてもその恐怖を乗り越えたくて、無茶な指示も多かったと思う。今までこの原体験について話せなくて、本当にごめん。なかなか口に出せない、心のふんどしを脱げなかったのは、俺の弱さだ」
イヌ「……桃太郎さん、もうそれ以上言わないでください」
桃太郎「いや、いいんだ。どうか言わせてくれ。そんな俺も、イヌ、サル、キジに出会えて圧倒的に成長できた。だから……」
サル「桃太郎さん、もういいです!」
キジ「わかりました、もう……」
桃太郎「この4人で、絶対にこの4人で鬼ヶ島ロンチを決めて、IPO(いっぱいおたからゲット)したいと思ってるんだ!!」
イヌ「桃太郎さん、もうやめてください」
桃太郎「俺は、必ず、世界を変えて……!!」
イヌ「黙れって言ってんだよ!!」
桃太郎「え?」
サル「桃太郎さん、もう言わせてもらいますけど、本気でサブいです」
桃太郎「え?」
サル「孤児であることは同情しますよ。でもこれはビジネスじゃないですか? 桃太郎さんのそういう個人的な歪んだ動機が、一つ一つの言動に傲慢さとして現れてる原因なんじゃないですか? リーダーとしてもっと、チームと成果にフォーカスして欲しいです」
キジ「正直、原体験とか、誰でも持ってるんですよ。でも皆、それを口に出さず必死に頑張ってるんじゃないですか。それを桃太郎さんは周囲の話も聞かず、世の中変えたい、変えたいって、エゴ撒き散らしてるだけだと思うんです。ロックスターを目指してるならともかく、ビジネスマンとしてはどうなんですかね?……っていうか、なんならイヌ、サル、私も生まれて二週間で親から離れて野生で生きてきたし、どっちかというと桃太郎さんは勝ち組ですよ?」
桃太郎「え?」
イヌ「そもそも、鬼たちにも子供がいるわけで、鬼退治したら孤児は増えますよね? 桃太郎さんの原体験と手段がブレてません? なんかもう、ついてけませんわ」
桃太郎「えー」
イヌ、サル、キジ、何かを諦めたように席を立ち、喫茶店を出ていく。
桃太郎「……」
3匹が出て行った喫茶店のドアを呆然と見つめる桃太郎。
桃太郎「……あ。コーポレートのTikTok、更新しなきゃ……」
桃太郎、スマホを取り出し、軽快な音に合わせて連続で変顔する様を自撮りしはじめる。
ゆっくりと暗転、幕。